『大分国際車いすマラソン大会』

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『大分国際車いすマラソン大会』

 1981年の国際障害者年を記念して、世界で初めての「車いすだけのマラソンの国際大会」としてスタートした『大分国際車いすマラソン大会』は、以来毎年開催され、世界最大、最高レベルの大会として、国内外から高い評価を受けている有名な大会です。

 選手は、カーボンやチタン等を使用し、軽量化された「レーサー」と呼ばれる車いすに乗り、10数人の集団を形成し、風の抵抗を避けながら疾走します。

 トップ選手になると平均時速30km超、42.195kmを1時間20分台で駆け抜け、下り坂では時速50kmを超えるといいます。

 一方、より重度の障害を持ち、上り坂をやっとの思いで登るランナーもいます。しかし、周りの声援に後押しされ、坂を上りきってしまいます。

 『車いすマラソン』という過酷なスポーツに挑戦するランナー達は、障害のある人に大きな勇気を与えるだけでなく、一般の観客に対しても深い感動を呼び起こしています。

 またこの大会は、2,000名を超える協力者やボランティア、企業からの協賛金、善意の寄付などによって支えられており、この大会を通じ、世界中に友情の輪が広がっています。

 『大分国際車いすマラソン大会』の公式シンボルマークは、大分県立芸術短期大学(当時:現在の公立大学法人大分県立芸術文化短期大学)の教授・大蔵善雄氏のデザインをもとに、大会実行委員会が第2回大会時(昭和57年)に定めたもので、ふたりの人間が手を結び、互いの連帯・協調を 誓い合っている姿を象徴し、それを取り巻く月桂樹は、勝利と友愛を表しています。

Photo by eviltomthai

 『大分国際車いすマラソン大会』の提唱者である中村博士は、昭和27年、九州大学医学部整形外科医局に入り、天児民和(あまこたみかず)教授に師事、リハビリテーションの研究を勧められていました。

 昭和35年、天児教授の勧めで欧米のリハビリテーションの現状を視察することになり、特にイギリスの国立脊髄損傷センター(ストーク・マンデビル病院)の院長グットマン博士の医療の方法に強い衝撃を受け、日本の立ち遅れに猛然と挑戦を始めました。

 日本では、医者は骨をつなぐだけで名医と言われるが、イギリスでは、患者が社会復帰するまで面倒を見ており、6か月で85%の人が社会に復帰し就職していたのです。

 家庭に閉じこもりがちだった身体障害者も社会に出て、健常者と同様の自立を促すため昭和36年、「第1回大分県身体障害者体育大会」の開催に尽力、また、昭和39年、東京パラリンピックの誘致にも力を注がれました。

 昭和40年、「保護より働く機会を」をモットーに「太陽の家」を設立、保護や慈善にたよる日本の福祉の変革に取り組みます。

 また、社会に対しては「世に心身障害者はあっても仕事の障害はありえない。太陽の家の社員は、庇護者ではなく労働者であり、後援者は投資者である」と啓蒙します。

 昭和56年、『大分国際車いすマラソン大会』の開催に尽力しますが、昭和59年、中村博士が死亡(57歳)。

 その当日、イギリスの、グッドマンスポーツセンターでは、『第7回世界車いす競技大会(第7回パラリンピック)』が行われており、会場では半旗が掲げられ、選手、観客全員が1分間の黙祷を捧げました。

 障害を乗り越え、社会参加の扉を開くための大きな一歩を記した『大分国際車いすマラソン大会』の活動に、これからも注目し、参加選手に大きな声援を送りたいですね。

※参考資料:
『大分国際車いすマラソン大会』
http://www.kurumaisu-marathon.com/

ライター:野間能子 ノーマ・プランニング。医療・スポーツ・美容・飲食など、ライフスタイル全般のプランニング、編集・執筆、商品企画などを行う。

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