バンク‐ミケルセンの国際的活動
デンマーク福祉社会とバンク‐ミケルセンの思想と実践 第20回
バンク‐ミケルセンは、その活躍の場をデンマーク国外に広げていきます。知的障害者の処遇と行政、「ノーマライゼーション」の理念について、国際的な場で発言し、他の国々の知的障害者の処遇改善にも力を尽くしました。
1959年には「北欧知的障害者福祉コペンハーゲン会議」の事務局長をつとめました。コペンハーゲンに北欧の知的障害者福祉に関わる専門家が集まりました。1962年にアメリカ合衆国で「知的障害に関する諮問委員会」がジョン・F・ケネディ大統領によって発足されました。その視察団はデンマークを訪ね、バンク‐ミケルセンと意見交換を行いました。1964年には、コペンハーゲンで「知的障害者の処遇に関する国際会議」の事務局長をつとめた。この会議をきっかけとして、デンマークは知的障害者福祉において世界から先進国として評価されるようになったのです。そして、バンク‐ミケルセン自身海外に招へいされる機会が増えてきます。
1968年、ケネディー財団からケネディー国際賞を受賞します。この賞は、知的障害福祉分野ですぐれた業績をあげた研究者・団体に贈られるものです。1965年にケネディー一族の1人で知的障害児を持つユーニス・シュライバー夫人がデンマークを訪れたとき、バンク‐ミケルセンとであったことがきっかけとなったといわれています。この受賞の賞金によって、国際会議の赤字を埋めることができました。
1960年から1971年にかけて、WHO、オーストラリア、アメリカ、サウジアラビアその他、約35カ国にアドバイザーとして訪問し、各国の知的障害者の処遇改善に努力しました。
1967年、カリフォルニアのSonoma State Hospital という、アメリカの知的障害者の施設を訪問したときのことです。その施設は当時アメリカの知的障害者の施設としてはもっとも先端を行くすぐれた施設だと評価を受けていました。この施設には3,400人の知的障害者が収容されていました。この施設を訪問した後、バンク‐ミケルセン(1995)は以下のように述べています。
私が見たのは、子どもと大人が一緒に詰め込まれ、阻害され、むきだしのコンクリートの床に50人の女性が寝起きし、食堂に続いたトイレには扉さえない有様です。そして、彼らに対して、適切な教育も処遇もされていないようです。
デンマークでは、家畜でもこのように取り扱いません。このような処遇を許しておくのは、政治家の責任ではないでしょうか。政治家は、自分や自分の子どもがこのような場所に生活する立場になったらどのように思うかを、考えてみるべきではないでしょうか
この発言がきっかけとなって、実態調査がすすめられ、カリフォルニア州知事は施設改革に着手することとなりました。
1985年には日本を訪問しました。山形、東京、京都、岡山で講演をし、大きな反響がありました。また、日本国内の施設を視察し、以下のように述べています。
視察した施設の数は少なかったけれども、どの施設も機能集中型の大きな施設だった。あのような大型の施設は、知的障害者にとっても適切なものとは思えない。悲惨にさえ感じてしまった。あるべきことではない。改善するべきだ。
このように、バンク‐ミケルセンは国際的な活動を通じて、知的障害者の処遇の改善のために発言しつづけ、世界各国のノーマライゼーションの実現につとめたのです。
佐藤豊:NPO法人や社会福祉法人で知的障害者授産施設の経営、ヘルパーの養成に長年携わるなど福祉事業をライフワークとして取り組んでいる。早稲田大学政治経済学術院公共経営研究科修士課程修了。岩手県一関市出身。
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